最初のミュンヘンの3日め
ミュンヘンの最初のホテルは、こじんまりとして清潔。朝食の中身も色々種類があるわけではないが、夫が言うとおり「必要にして十分!」な居心地の良さ。ヨーグルトもパンも美味しく、卵のゆでかげんもぴったり。
懸案の航空博物館は明日行くつもりとのことで、今日は私が行きたいところに行っても良いという。ガイドブックによれば美術館も英国庭園もあったけれど、ここはのんびりとバイエルン王家、ヴィッテルスバッハ家の本宮殿であるところのレジデンツを見物に行くことにした。
少女マンガで育った人間にしてみれば、バイエルンといえば神々の黄昏のルートヴィヒだし、ヴィッテルスバッハといえばハプスブルク家のフランツ・ヨーゼフの嫁のエリザベートの実家である。ウィーンのシェーンブルン宮殿(ベルサイユのバラ、マリー・アントワネットの実家)同様、近くを通るからには寄らずにはすまない場所なのだ。
エリザベート(シシー)は日本でも人気で、宝塚の芝居にもなったらしい。彼女は姉の見合い相手であったフランツ・ヨーゼフに見初められて結婚したはいいが、嫁入り先のウィーンの宮廷はがんじがらめで姑に子供はとられ、婚家のウィーンを遠ざかれば元気になり、帰ると具合が悪くなるという体質になっちゃった人である。幸い美人なのでウィーン以外では大人気、莫大な費用をかけたお召し列車を使って婚家を避け続ける一生を送った。
以前、TVで英国の公爵家の跡取り息子の生活が紹介されていて、広大な城に住む彼は本を読もうと思ったら居室から図書室まで500m歩かなければならないとのことだった。いっそ図書室の隣に部屋を作ったらとか、それは元々の設計ミスで、そんな遠くに図書室作ったら当主がバカに育つだけじゃん、と言いたくなるが番組の趣旨はもちろんそういうことではない。
やっと宝物殿にたどりつく。ヴィッテルスバッハの家系はより芸術を尊重する家系であると何やらにあった。するとお終いにはルードヴィヒみたいなのが生まれてしまうのである。しかし12世紀中頃から始まるというヴィッテルスバッハの数々の王冠だけ見ていても面白い。最初の頃は技術がないので造りが稚拙で宝石も大きいのをところどころにつけてるだけ。それが後年となるとセッティングも宝石のカットも進み、現代の宝飾品らしくなっていく。が、ヘンなもので王冠の重さを感じるのはむしろ初期の方なのである。
当時の王侯貴族の必需品、東洋の磁器も展示されているが、これも後年になればヨーロッパのものになっていく。こちらもありがたいのは初期の方だ。いやあ、こんなところまでご苦労さん、から始まって、鍋島藩のお女中みたいな人は一人もいなかったのかなー、とか。日本や中国で作られた壺だけど、右の壺はトルコに行く船に乗り、左の壺はバイエルンに渡ってきたんだなー、などと考えると趣深い。
疲れを癒すべく、ガイド・ブックにあるコーヒー屋さんに行く。歌劇場から駅方向に行く通りは銀座みたいなところで、マリエン広場よりは全然高級だった。歩いている人のオシャレさが全然違う。それはいいのだが、あるべき場所にお店がなかったのでなおも歩き、なおも疲れることになった。夫、バウム・クーヘンを注文。皿にはアイスクリームだの生クリームだの大量に載ってきて、食べきれなかった。お昼を食べてないのに。
と、そこで夫が言い出す。「オレはこれからドイツ博物館にまた行こうと思う。」
どうしても見たかったものが見つけきれなかったらしい。そうか、行ってこい。私はそのへんでうろうろするし。って言うか、待たせてると思えば気になってゆっくり見られないものを
今こそ存分に見て、迷って迷って迷った挙句にやめたり買ったりするチャンスだあ!!
ミュンヘンはセール期間中だった。服や靴は試着というものが必要で、同じサイズでもあのへんとかこのへんの兼ね合いによって、様々な不都合が発生する。そしてヨーロッパでは、ものの話によれば、同じサイズでもプラマイ2cmは検品を通るらしい。
だというのにヨーロッパでは皆、ボタンが飛んでいきそうなくらいぴったりなのを着ている。それでいてサイズは様々で、まず身長が大中小といて、横にも大中小といて、女子の場合は横というより前後に大中小がいて。なのにあの人達は自分にぴったりな洋服を見つけている!!。
今でこそ少しはマシになったが、今なお日本では1サイズの商品だけを置いている店がある。以前、竹下通りでふくよかな白人女性が「ここには何故、普通の女のサイズの洋服を置いてないの!?」と怒っているのを見た、という話を読んだことがある。逆にミュンヘンは、普通の幅が広すぎる。
それはともかく、カードでのお会計のさいに、決済は日本円にするか、ユーロにするかと聞かれた。現時点の日本円と、引き落とし時のユーロと、どっちがお得かを判断して御覧なさい、というわけだ。旅行直前にはイギリスがユーロを離脱してユーロは下落、前日はイスタンブール空港でテロ事件があったと知ったばかり、なので日本円に選択。が、その後もバングラデシュでは人質事件があり、フランスでもテロがあり、トルコでも軍事グーデターがありと続いた。
カールシュタットなるデパートの地下の食品売り場(便利!)でお土産を漁ったりもしていると、あっという間に時間は過ぎて、夫の方が先にホテルに帰ってきていた。聞けば、目的のそれは展示してなかったらしい。アメリカ ワシントン D.C.の政府機関閉鎖の時ほどの悲劇ではないと思うのだが、気の毒ではある。D.C.のときには「また来ればいいじゃん!」と慰めはしたが、あのときは名だたる目的地が全部お休みで、空虚、という言葉を実感したものだ。
その日はレジデンツ見物だけしたことになる。が、後でガイドブックを見たら観光のモデルコースとして新市庁舎とドイツ博物館とアルテ・ピナコテーク(美術館)とレジデンツを1日でまわることになっていた。日本なら博物館と美術館のハシゴくらいは出来そうだけど、いくらなんでもここでそれはナイだろうと思われる。
その日の食事は裏通りの地元の人向けのレストランに入ってみた。レストランというよりビアホールっぽく感じたのはなぜかというと、テーブルが直線的にずらずらーっと並んでいたからで。広いのに給仕は一人、チロリアンというか、アルプスっぽい民族衣装を着て忙しく働いている。ここでもウィンナ・シュニッツェルを勧められたけど、「イエスタデイ・・」の一言で察してくれた。
結局、ローストポークとアスパラガスを大量に入れたサラダとビールにワインで38ユーロ。
ここはお得だった。にしても、ビールを注文するのは難しい。いつものビールはピルスと言えば通じるがそれは飲みたくなくて、黒ビールは英語ではブラック・ビアでなくダーク・ビアでドイツ語ではデュンケルといえばそれらしいのを持ってくるが何か薄い気がして、ヴァイツェンと覚えていた薄甘く白く濁った大好物のビールはここではヴァイスと言わないと通じない。
このあたりは、しょせんネイティブでない人間の言葉なんぞはハナモゲラなんじゃないのかと呑気に恥も知らず発音できる私の出番で、ひらがなみたいな「だんけ」の方が現地人はうれしそうにしてくれるのであった。コーヒー・ショップでも「あいん かっふぇ、うんと あいん ばうむくーへん・・」ってな調子で。
ところでこの日は万歩計を見たら26,000歩も歩いていた。ミュンヘンがさりげなく広いのか、それとも女をデパートで野放しにしたらこうなるのが当たり前なのかはわからない。
それでも普段歩いたと思っても13,000歩とかそんなものなので、中々の衝撃だった。
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ヘルツがマクスウェルの予言に従って、電磁波の存在を確認したアンテナが見つからないので、再度「ドイツ博物館」を訪れた。インフォメーションに確認したら、テレコミュニケーションのところは、改修中なので展示していない。歴史的なものなので、物理学のところにあるかもしれない、
とのこと。さんざんさがしたのだが、見つからなかった、残念。
歴史的な展示物をいくつか。
これは、フランフォーウェルの作った、24.4cmの屈折望遠鏡。こちらは、シュミットによる、最初のシュミットカメラ。